いつかどこかで1
近世のヨーロッパ、私は貧しい女性でした。石造りの橋のすぐ横の、やはり石造りの長屋のようなところに住んでいました。
いつの頃からか一緒に住みだした男は、言葉が不自由でした。ボンヤリとした表情で、何を考えているのか何を言いたいのか分かりません。
その男を見下していながらも、すでに若くなくおまけに道行く人に指差されるほど醜い顔の自分では、それ以上望むべくもありません。
そんな私にも、ただひとつの楽しみがありました。
それは、ある人の様子を遠くからうかがうことでした。
石畳に響く馬車の音と、上品な整髪剤の香りで、その人が来たとわかります。
彼は、あるお店に入り、いつも何冊かの本を買って帰っていきます。字が読めない私にとって、それは大きなあこがれでした。かすかなインクと紙の匂いの向こうに、まだ見ぬ世界が広がっているような気がしたからです。
いつかその人が、私を遠くの美しい国に連れて行ってくれる…わずかな夢の時間でした。
… … … …
ある日、同じ馬車から、鮮やかな色のドレスを着た女性が降りてきました。
華やかな笑い声とバラのような甘い香り。彼の大切な人に違いありません。
私は薄暗い長屋に戻り、同居人をどなりちらして気持ちをごまかしました。男はただモグモグと、よくわからない言葉を繰り返していました。
… … … …
やがて私が死ぬ時がきました。
次回に続く
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