人々のあやまちをゆるすなら
マタイによる福音書第六章の続きです。
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
人をゆるすならば神様からゆるされる…と解釈すると何か釈然としないものを感じます。
ゆるす・ゆるされるが、誰かから誰かに為される他力本願的なことなら、なぜ人のために、しかも憎い相手のために、わざわざ私がしなくてはならないのでしょう。
ゆるすという行動が、自分がとらわれていた感情を自分のチカラで手放すという、自力本願のものなら、そして誰よりも自分のためにすること、と捉えると、この聖書のことばがストンと落ちてきます。
天の父は天上にではなく、ここ、私の中にいるのです。
第七章にもこのような言葉があります。
人をさばくな、自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
無意識のうちに意外とやっています、私も。
心の中で批判したり、ランク付けしたり。それで「勝った」ような気になっていると…
アブネ━━Σ(゚д゚;)━━!!
気をつけましょう
大宇宙の法則に例外はありませんぞ
ところで、若い頃は、自分の中に神様がいるなんて思ってもいなかったのに、やっぱり赤線を引いていたんだわ、なんでだろーねー。変わってないね、私。